重層的な文学表現の試み 福永武彦「死の島」

ついに昨夜、福永武彦「死の島」を読み終わりました。 1000ページ近い長編で構成が複雑、内容が濃くて深い小説だったので、ひさびさにじっくり腰をすえて読書をした、という感じです。 ワタシが学生だった頃は本屋さんの店頭に福永武彦の文庫本がずらりと並んでいて、「草の花」から「忘却の河」「廃市」など片っ端から集中的に読んだのに、なぜか「死の島」は存在すら認識していませんでした。 P&M Blogのpiaaさんからすすめていただいて、今回20数年ぶりに福永武彦の本を読むことに。 いまでは福永武彦の本って、ほとんど手に入れることができないんですねえ…知りませんでした。 「死の島」は図書館で新潮社の福永武彦全集10巻・11巻を借りました。 つまり、文庫本のようにあらすじも何も書いていないわけで、どういう小説なのか、まったく予備知識なし(piaaさんがとても好きな小説だという以外には)。 真っ白な状態で読み始めました。

小説家を目指している出版社社員の相馬鼎を語り手に、相馬が知り合った2人の女性=綾子と画家・素子と相馬との微妙な関係をひとつの軸としつつも、その間に相馬が綾子と素子をモデルに書いている小説の断片や、素子や綾子、そして相馬たちとは直接関わりのなさそうな男性の内面、さらに相馬の夢が、途中に不規則に挟みこまれていて非常に入り組んだ構成の小説です。 あらすじを追うことは、この小説に関しては意味がないと感じました。

相馬が女性2人の元へ駆けつけるために広島を目指す24時間の流れを、2人を巡る過去の記憶や、一見すると話の筋とは関係のない独白が何度も挿入することで、わざとブツブツと断ち切っているかのようです。 小説中で相馬に語らせているように、福永武彦はシベリウスの交響詩にインスピレーションをえて、そういうものを文学で表現したかったのではないかと思います。 なんの関連もなさそうな断片が並びながらも、全体を見通すと独特のひとつの世界観が立ち現れてくるような。 このようにとても実験的な試みがされた小説でありながら、読みにくさを感じなかったのは意外なほど。 全編を通して背景に原爆の影が漂う、暗くて重い話なのに、読後感が悪くないのも不思議です。 語り手である相馬が小説家志望でありながら、若くて洞察力がなく自意識過剰な青年であることが、かえって救いとなるような軽さと明るさを醸しだしているのかもしれません。

実験的な表現を追求しすぎて表現そのものに溺れてしまい、「で、何が言いたいの?」と突っ込みを入れたくなるような空疎な小説もありますが、「死の島」は「これぞ王道の純文学!」という重みと内容がありました。 被爆者である素子の心を蝕んでいく虚無=原爆投下後の風景…ワタシハ一生忘レナイダロウト思イマス。 この小説を単なる「原爆小説」としてくくるのはちょっと違うと思うのですが、それでも今まで接した何よりも原爆の恐ろしさが生々しく伝わってきました。

ほんとうにひさびさに濃密な文学体験をしました。 すすめてくださったpiaaさん、ありがとうございました。
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