全摘手術から丸4年 無事に通過!

4年前の2月12日、乳がんの全摘手術を受けました。 片胸をえぐり取られた喪失感は想像以上で、気分的にヨレヨレ状態が続きましたが、そんなことも4年経てばほとんど忘れてしまうほど遠い記憶。

手術の前後に入院している間、いまと同じように冬季オリンピックが連日テレビで放送されていました。 そのときは、4年後のオリンピックをテレビでみている自分なんて想像もできなかったけれど、本当に普通の生活に戻れました。 片胸はなくしたけれど、元気に生きていられることに感謝。

大好きな高橋大輔くんのフィギュアスケートとレジェンド葛西のジャンプだけはどうしても生放送でみたいのに、試合は手術直後の丑三つ時(笑)。 「看護師さんに怒られるよねー」といいながら、6人部屋の全員が「絶対に起きてみるぞー!」と朝からワクワクしていて、深夜にこっそり枕元のテレビをつけて(でも、カーテン越しだからバレバレ)イヤホンつけて、じれじれしながら試合開始を待って。 それなのに結局、待ちくたびれて寝落ちしてしまったこと(ざっくり30センチも切った直後なんだから当たり前)、いまも鮮明に覚えています。

あのとき同室だった人たちはみんな、私よりもずっと深刻な状態のがん(乳がん以外の)だった。 がんの部位が違うし、病状の重さも全然違うから、「非浸潤がん」といわれて脳天気に信じていた私(術後に浸潤がんとわかったけれど、それでも同室の人たちとは別次元)とは気持ちも考え方も全然違うだろうと思うと、誰とも連絡先を交換しないまま退院して二度と会うことはなかった。 せん妄があったり、抗がん剤治療をかたくなに拒否していたり、お腹が異様に腫れていたり。 あのときのみんな、どうしているだろう…まだ生きている人はいるだろうか。

2.16ロウバイ

手術のとき、個室じゃなくて大部屋に入院して、本当によかった。 みんなとおしゃべりしたり、抗がん剤に耐えている姿をみたりして、私なんてうんと軽い方で、胸をなくしたぐらいでメソメソしてちゃいけないと思えた。 そばに人の気配があるだけでも、私は心強かった。 こんな明るい青空を、みんなもどこかで眺めていて欲しい。


顔見知りの立派なロウバイの木が、今年も2月上旬にすでにたっぷり花を咲かせていました。 この木に会うために、お散歩ロングバージョンで行ってきました。 期待していた香りがあまりしなかったのだけが残念でした。

見通しの立たない仕事と親のお守りと講座の課題で、忙しいようなそうでもないような、微妙に落ち着かない毎日ですが、インフルエンザにも風邪にもかからず元気にしています。

死ぬまでにしたかったこと 一つクリア

死ぬまでにしたいことの一つ、本日やってみました。

12.1ツリーの飾り付け

クリスマスツリーを家に飾ること。

何年も迷いに迷いに迷いに迷った(笑)末に先日ネットでポチッとしてしまったドイツ製のクリスマスツリーをやっと玄関に飾りました。 高さ120cm。 わが家には十分過ぎるほど大きい。 本物のモミの木の香りがないのがさびしいし(当たり前だけど)、枝葉を広げてもなんとなくスカスカしていて支柱がチラッとでもみえると興ざめではあるけれど、でも葉っぱの感じは本格派。 ようやく念願を一つ叶えました。

12.1ツリーの飾り付け2

かわいすぎ?(汗) 自分で作ったストロースターばっかりというのもしてみたいけど、まずはどうしてもこのかわいいシリーズを飾りたかったんです。

友だちに付き合ってもらって、2年連続でドイツのクリスマスマーケット巡りをして(もう12年も前のことなんだな)、惚れこんだザイフェンの木工細工がやっと飾れた!  友だちと行った後で、あまりにも好きすぎてもう一度兄と姪たち、両親も一緒にザイフェンへ行って、あれこれ買ったんだけど飾れないまま完全死蔵品。 10年以上経って、やっと。 赤いガラス玉が小さすぎるな。 これは私が子どもの頃(もしかしたら生まれる前かも)に母がドイツで買ったもの。 大きなガラス玉はダメになっちゃったんだけど、これだけ残っていました。

死ぬまでにしたいことがこれ?と笑われそうですが。

人間ドックで「要精密検査」の通知を受けて、検査だけのつもりで行ったその場で「がんです」とあっさり告知されたのがクリスマスイブの日でした。 兄を突然失った打撃から立ち直れずにいる年老いた両親にどう言えばいいのか…そんなことばかりが頭の中をグルグルしてまっすぐ家に帰れず、街中をふらふら歩いていたら、世の中はクリスマス一色で、みんな楽しそうで。 必死で涙をこらえながら、クリスマスの街角でどこへも行けずに一人で呆然としていました。 その時の底なしの悲しさは今も忘れられません。

手術して抗がん剤をして、治療中ずっと、もう二度とクリスマスを楽しめないんじゃないか…と絶望的になったこと何度もありました。 でも、絶望の沼にはまったような告知から4年近く経ち、まだ生きています。 それも、思っていたよりずっと元気に。

両わきのリンパ節は腫れっぱなしだし(でも摘出した部分にがん細胞はみつからずグレーなまま4年経過)、胸腺も腫大していて(甲状腺ホルモンの治療をしたら少しだけ小さくなったみたい)、肺にはあやしい小さい影があって(コレを教えてもらったのは半年前…先生、よほど疑ってたのね)、それでも告知されたときには想像もできなかったほど、4年後の私は元気です。

告知されたあのとき、死ぬまでにしたいと強烈に思ったもう一つのことも、新しく講座に通い始めて実行に移しています。 治療のために失ってしまった丸1年+αの長い時間を、いま少しずつ取り戻しています。 12月半ば、半年ごとの乳腺外科の経過観察で、何も変なものがみつかりませんように!

抗がん剤ラストから丸3年 普通に元気です

3年前の10月20日、抗がん剤治療の最終回でした。 辛い抗がん剤治療を予定通り最後までやり遂げた達成感は今も忘れられません。 でも、抗がん剤のさまざまな辛さはもう実感として思い出すことができないほど遠くなりました。

あれから丸3年、すっかり元気です。 兄が急逝して心身ともにヨレヨレになっていた頃よりもずっとずっと元気。 仕事もすっかり本調子に戻り、本当に「普通」の生活を送れています。

現状をまとめると

●髪質=脱毛前のしっかりとした直毛と比べると、細くてコシのない髪質になって、伸びるとビミョウなウェーブがでてくるため、思い切りショートにしています。 髪の毛があるだけで十分。

●白髪対策=白髪は脱毛後すごく増えましたが、加齢のせいかもしれません。 ヘアカラーには発がん性があると気にする人もいますが、私はウィッグとサヨナラした時から1ヶ月半に1度くらい美容室でカラーとトリートメントをしてもらっています。 治療が終わってから、確か新聞記事でお医者さんが「地肌につかなければ毛染めしても大丈夫」とコメントしているのを読んで(出典があやふやなので、気になる人は自分で情報をチェックしてくださいね)、白髪を気にしているよりも、美容室で手入れしてこざっぱりしていることで精神的にもいい状態でいられると考えてのこと。 脱毛する前よりも、髪の毛にかけるお金をけちらなくなりました。 だって、1本残らず抜けてからまた生えてきてくれた大事な大事な髪なんですもの。

●眉毛・まつげ=脱毛前より薄くなりました。 が、以前があまりにもゲジゲジ剛毛多毛だったから、ちょうどいいくらい。 眉毛は以前よりいい感じで気に入っています。 抗がん剤の副作用の中で唯一よかったこと。

●手足のしびれ・味覚障害・静脈炎=手足のしびれ・味覚障害は抗がん剤治療終了後ほどなく、まったくなくなりました。 抗がん剤が通過した血管は主治医が驚くほどひどい静脈炎を起こして、赤黒くカチカチに硬くなっていましたが、復活。 今年の春頃から血液検査は、手の甲からではなく腕の通常の位置でとれるようになりました。 相変わらず血管が細くてとりにくそうではありますが、柔軟性は大丈夫とのこと。 主治医に「これだけひどい静脈炎だと、とても3年くらいでは元に戻らない」と言い切られていたのに、案外早く元に戻ってよかったです。

●思考力の低下=加齢の影響がありそうなものですが、意外にも最近は思考力や集中力、決断力は罹患以前よりもいい感じ(がん発覚前は、兄の死のショックから立ち直れずひどい抑うつ状態で頭の中は最悪だった)。 記憶力は…トシですね。

●抗がん剤の置き土産??=抗がん剤治療後に発症したバセドウ病は、治療薬メルカゾールを2年足らず服用していて甲状腺ホルモンは安定しています。 バセドウ病を治療したらとても太りやすくなって、生まれて初めて体重を気にする日々。 大好きなご飯やスイーツを少しだけ我慢。

ずっと心にひっかかっていた「トリプルネガティブ乳がんは3年以内の再発率が他の乳がんタイプに比べてかなり高い」という、治療中から目の前にそそり立っていた高い高い壁をいつのまにか越えて、「再発したらどうしよう」という恐怖が最近急速に遠ざかっているのを感じます。 だからといって、4年目以降は絶対に再発しないというわけではもちろんないのだけれど、気に病んでも心身に悪い影響しかないでしょうし、気にしない気にしない。


10.22貴船菊

雨続きになる直前に撮った貴船菊。 リビングの前に自然に生えて、なんの手入れもしないのに、毎年可憐な花を咲かせてくれています。 はかなげな風情だけれど、実はなかなかに強い。 こんな風に生きたいなあ。


抗がん剤治療ラストから4年目の第1日に、新しい講座に通い始めました。 今までとはまったく違う世界へ一歩踏みだしてみました。 新たなことに挑戦しようという気持ちになれた、そのことが素直にうれしい。 うまくいくのか、楽しめるのか、まったくわかりませんが、ドキドキするのはこの年齢になると新鮮な体験です。 何を始めたのかは内緒! いつかうまく軌道に乗れたらご報告します。 いつのまにかうやむなになっていたら、温かくスルーしてやってください(笑)。


今夜はこのあたりも暴風雨で、今まで聞いたことがないような風の音がしています。 携帯に避難勧告の着信音も何度も鳴るし(同じ区内でもわが家からは遠いエリア…なんていってたら、うちの学区も!)。 眠れるかな。 崖や川に近いところに住んでいる人は怖いでしょうね。 甚大な被害がでませんように。

■いつも拍手をありがとうございます。 無事に丸3年が経過しました。 5年生存率をわずかでも押し上げられるように、5年間しぶとく生き延びるのが次の目標です。

術後3年半、無事クリア!

7月末、半年に1回の乳腺外科主治医の経過観察診察を無事にクリアしました! 今回はマンモグラフィー+血液検査+視触診。 特に異常なし。 血液検査の結果は甲状腺ホルモンも含め、いずれの項目もピカピカの理想値。 白血球数やリンパ球数が復活していて、それもうれしい。 腫瘍マーカーは1年以上調べていません(バセドウ病とわかるまでは、主治医が何度も調べさせていたけど)。

左胸の全摘手術から丸3年半が経ちました。 私は術後に抗がん剤治療をしたので、治療終了から数えると、まだ3年足らず。 トリプルネガティブ乳がんは3年以内(告知から?術後?抗がん剤治療終了から?数え方は謎)の再発率が他のタイプの乳がんに比べてかなり高い(トリプルネガティブの3分の1が3年以内に再発するとか)ので、抗がん剤治療をしていたとき「丸3年生きのびる!」が当面の目標でした。

トリプルネガティブはひと通りの標準治療が終われば、あとは無治療(ホルモン薬は効かないので服用する必要なし)。 だから、経過観察は半年に1回で、次は年末まで診察はありません。 ということは、辛い自覚症状がものすごく急激にでてこない限り、当面の目標は達成できる! 次の目標は治療終了から5年。 トリプルネガティブは5年以降の再発率が他のタイプよりもぐっと低くなるんです。

8.11秋海棠


「乳がんが再発して遠隔転移した場合、完治は望めません。 検査で早く再発をみつけても、痛みなどの自覚症状がでてから治療をしても、生存期間に差はないとされています。 脳や骨へ転移した腫瘍は手術でとることができないので、本人が痛みで気づくまで特にする治療はありません」などと、結構怖いことを抗がん剤治療が終わったときに、主治医からサラッといわれました(告知のときと同じように、ものすごくあっさりと)。

「それなら、どうして経過観察の診察をしているの?」とききたかったけど、それを問いただすのはちょっと怖くて。 しばらく主治医の診察を受けている間にうっすらとわかってきたのは、主治医が経過観察で気にしているのは遠隔転移ではなく、同じ乳房内での局所再発と、反対側の乳房に新たながんができること(トリプルネガティブは転移ではなく反対側にも新しいがんができる確率が高いらしい)。 ついこの間、NHKのEテレでやっていた乳がんの番組でも、お医者さんが遠隔転移について私の主治医とまったく同じことを言っていましたから、それが乳がん学会の見解なんですね。 他の人のブログで、ものすごく詳細にPETやCT、MRIから骨まで毎回いろいろ検査をしているのを読んで、「私はしなくてもいいのだろうか?」とはじめは不安になったりもしたんですが、特に疑わしいところがなければ、検査のために放射線を浴びすぎるのはかえってよくないとのこと。

再発転移についての主治医の説明を聞いたときはグサッと胸に刺さったけれど、時間が経って冷静になれば、再発について無駄に心配してあれこれ検査したりせず、がんがみつかる前の日常に戻るのがいいのだと納得がいくようになりました。 他の人と治療や検査のやり方を比べても意味ないんですよね。

8.11コムラサキシキブの緑の実

今回は直前まで仕事でバタバタしていたため、いつものように「再発していたらどうしよう」などとナーバスになっている暇もなく、大慌てで病院へ。


仕事とプライベートで多忙だった7月が終わると、急に暇になってホッとしたら暑さでヨレヨレ。 毎日毎日最高気温は35℃とか36℃、おまけに湿度やたら高くて空気が重い。 家の外にでるのに勇気がいります。 夜は夜で、連日27℃くらいの熱帯夜。 暑さに耐えているだけで精一杯。 なーんにもしたくない。

親の寝具を洗ったり干したり、家の中であちこちメンテナンスをしたりと、こまごまとした雑用を少しずつ片付け、お盆のお墓参りをした以外は、暑さに耐えて毎日ご飯を作るだけでグッタリ。 ネットからも遠ざかって、家に閉じこもってミニチュア家具のキット作りに没頭していました。

やたらに更新の間があいてしまいましたが、息苦しいほどの暑さで気力が減退している以外は元気にしています。 夏やせするどころか、高齢の親に良質タンパク質の食事をとらせようとせっせと料理をして、自分が一番丸々してきています(汗)。 夏太りなんて生まれて初めて。


■たくさんの拍手をありがとうございます。

■donauさん、ラベンダー畑、本当にきれいでした。 機会があればぜひ!


 

抗がん剤最終投与から丸2年半 温泉へGO!

抗がん剤最終投与から4月20日で丸2年6ヶ月になりました。 3分の1が3年以内に再発するというトリプルネガティブ乳がんなので、目下の目標は治療終了から丸3年を何事もなく迎えること。 気にしても仕方がないし、元通りの生活サイクルに戻ったら、あれこれ他のことに気が行くから、「がん」を意識することはずいぶん少なくなってきました。

ただ、温泉へ行こうとすると、やっぱり全摘の胸が気になります。 今回の白浜温泉でも、露天風呂付きの部屋にするかどうか迷ったのですが、お金ないのにそこまで贅沢しなくてもいいのではないかと思えて、広めの和洋室に泊まって大浴場に行くことにしました。 

4.24白良荘

ここに泊まりました。

週半ばで空いているだろうと期待していたんだけれど、実際には思っていた以上におおぜいの人が泊まっている様子。 チェックインしてすぐの16時頃は大浴場は空いていて数名程度だったので、他の人と一緒に露天風呂に浸かってきました。 案外、平気! 夕食後はずっと混雑していたため、10時過ぎまで待って再トライ。 ガラガラではないけれど、シレッと露天風呂へ。 若干1名、東洋系外国人が何やらぶしつけに私をみているような視線を感じましたが、無視。 別に悪いことしてるわけじゃないし、そこまで私がコソコソしなくちゃいけない理由なんてないし、だいたいその人がほんとうに私の胸をみているのかどうかもわからないから自意識過剰なだけ!と自分を鼓舞して完全無視。 途中で母も気づいたのか、さりげなく全摘の胸の側に座ってくれて視線をブロックしてくれました。

湯船に入っている間は左手を首にかけるようにして、さりげなく(?)左胸を隠して、あとは気にしない気にしない。 潮風と波の音が心地いい露天風呂は、温泉のぬるっとした湯触りが心地よくて、お湯からほんのり潮の香りがして、とっても気持ちよかったです。 こんなに気持ちがいいのだから、見られていようかいまいが、もうそんなことはどうでもいい。 ぶしつけな視線にも傷つかないくらい、いつの間にかずいぶん図太くなっている自分にビックリです。 居直った(笑)。

思っていた以上に平気で入れたので、次からはあまり葛藤せずに温泉に行けそうです。 胸を気にして温泉の心地よさを味わえないのはもったいない。

4.24白良浜

実は、同じ頃に同じように全摘手術と抗がん剤治療をしていた人のブログで「大浴場でも平気」と、とても自然に温泉を楽しんでおられるのを読んで、そうだよね、そんなこと気にしなくてもいいんだよね、誰も他の人の身体をそんなにまじまじ見ないよねと励まされました。 人によって感じ方はいろいろだけれど、温泉に対するハードルは時間の経過とともに少しずつ低くなっていくようです。 自分の欠けた身体イメージに慣れてくるというか。

4.24渚


そんなこんなで、白浜温泉の海が間近の露天風呂はとっても気持ちよかった♪ 図太い自分に乾杯!


■たくさんの拍手をありがとうございます。 どんどんおばさん化しているだけかもしれないけれど、図太くなることも時には悪くありませんよね。

術後、丸3年が経ちました

「○○記念日」と、いろんな日を覚えているのがとても苦手な、うっかりものの私でも忘れられません。 3年前の2月12日、左胸の全摘手術を受けました。 建国記念日の翌日の夕方に。

手術を受けた頃は、3年後の自分なんて想像もできなかった。 でも、乳がん発覚から3年以上が過ぎて、意外なほど(!)普通に元気に生きています、今の私。 わきからバッサリ30センチの傷があっても、左胸がなくても、案外普通。

バセドウ病やら骨粗しょう症やらメニエール病やらキツイ花粉症やら(結構たくさんあるなあ…)、細かい病気はいろいろ抱えているけれど、なんでも美味しく食べられて、行動の制限がないどころか以前と同じように普通に仕事も家事もできて、超高齢者の両親のお守りもできて、こまかーい手芸や手仕事も楽しめて、最近ではウォーキングに飽き足りず、ランでもしてみようか(さすがに無理と思うけど)、あるいは四国の歩き遍路の続きをしようかという野望さえ芽生えたりして。

2.13白梅3分咲き

30センチもの大きな傷があって、わきのリンパを3分の1切除していても、腕はほとんど左右の差がないほど自由に上がるし、傷の痛みは手術直後から驚くほどなかったし(主治医の腕がよかったのだと深く感謝)、抗がん剤でカチカチになった右腕の血管の違和感も今ではほとんど消えている。 とにかく、日々の生活に特に支障なく普通に過ごせています。 

この「普通」っていうのがとっても大事なんだということは、がんが発覚してから身にしみて知りました。 術後に抗がん剤治療をしていた頃は、それまで普通と思っていたことがことごとく何もできなくなって、それがとてもとても辛かったから「普通」でいられることに心から感謝。 いつまで生きられるかは誰にもわからないから、今このときを大事に、一日一日、陽ざしや風の匂い、空の高さ、身のまわりの一つ一つをしみじみ味わって生きていきたいと思っています。

抗がん剤治療中によくのぞいていたブログの方々が「全摘した胸に誇りを感じている」と書いておられるのをみて、胸を失って自分でも予想していなかったほど悲しくて悲しくて仕方なかった私は、とてもそんな達観した心境には一生なれないと思っていたけれど、今はなんとなくそういう気持ちもわかるようになってきました。 全摘の傷=いろんな辛いことに一人で耐えられた証のようにも思えるものなのですね。 再建は今のところ考えていません。 健康を守るために必要な手術ではないし、やっと手に入れた平穏な日常を、身体にメスを入れることで乱したくないから。

2.13コブシの蕾

もしも、これから手術を受ける方や手術直後にこれを読んでいる方がいたら、大丈夫ですよと声を大にして言いたいです。 大きな傷は考えただけで怖いけれど、現代の医学はとても進んでいて思っているほど痛くありません(執刀医が下手でなければ)。 私は病院の指導でリハビリを手術翌日からさせられました。 そのおかげで、わきのリンパを切除しても腕は自由に上がります。 辛い時は泣いてもいい。 でも、いつかまた普通に笑える日が戻ってくるから、それを信じて目の前の辛い治療を一つ一つ乗り越えていってください。 何もできないけれど、ここから応援しています。


連日、大雪警報などがでているわりに、このあたりはすごい底冷えはしても(最高気温が4℃とか5℃とか)たいして雪は降りませんでした。 写真はもう1週間も前に撮った白梅とこぶしのつぼみ。 こんなに寒いのに、今年は梅の花がずいぶん早く咲き揃ってきました。 お隣の梅の木はもう3分咲きくらい。 でも、コブシはまだまだ。 コブシの真っ白な花が咲くのが待ち遠しいです。

■たくさんの拍手をありがとうございます!

■京子さん、いつも優しいコメントをありがとうございます。 京子さんのコメントを読んで、叔父が亡くなってからいろいろあって弱っていた心の奥底がじんわり温かくなりました。 毎日をきちんと生きていること、本当に大事なことですよね。

「緩和ケア」という言葉の響きが重すぎて

週末は2週間ぶりに叔父のお見舞いに行ってきました。 叔父は思っていたよりもずっとずっと元気で、終末期とはとても信じられないほど。 本当に驚きました。

10月半ばに入院した頃よりも顔色いいし、ちょっと肉付きが良くなって顔が丸くなった印象。 お医者さんから「片肺が完全に潰れてしまった。残った方の肺には間質性肺炎があるので、明日どうかなっても不思議ではない」と言われてから1ヶ月近くが経過しているけれど、あの頃よりもずっと楽そう。 上半身は動かさない方がいいらしいけど、足は動かすようにとお医者さんから指導されたそうで、腹筋運動みたいに両足を揃えて勢いよく数回上げ下げしても、酸素吸入しているとはいえ息も切れない。 だいたいが酸素マスクがとれて鼻チューブだけになってるし。ベッドに仰向けに寝たまま、窓からみえる雲を眺め、自分が山で撮った大好きな山野草や山脈の写真をみながら毎日スケッチを楽しんでいるそうです。

12.07ヒイラギの花


最近の緩和ケアってすごい。 一般に漠然とイメージされているよりもずっとずっと進歩している。 叔父は病院へ行きたくないから、ずいぶん長い間苦しかったりしんどかったりを誰にもいわずにじっと我慢していたらしい。 で、苦しいのを我慢していることで全身が弱って免疫力が低下→そうなると体内のがんは増殖力が増す、という悪循環に陥って、がんが予想以上のスピードで進行してしまったと思われます。 それが、入院して緩和ケアとして(緩和は治療ではありません)ごく少量ずつ腹部からモルヒネを入れることで苦しみがなくなって、全身状態が改善→一時よりも体調が安定ということのようです(叔父自身も「そうだと思う」といってました)。

緩和ケア=死ぬ間際の人が受けるものと、がんに罹患するまでは私も先入観をもっていました。 でも、本当はそうじゃないんですよね。 国立がん研究センターの「がん情報サービス」ホームページ内の「がんの療養と緩和ケア」を読めば、病気にともなう痛みは我慢せずに薬を使って取り除いた方が生活の質が上がることがわかります。 海老蔵の奥さんもブログに「我慢せずに、もっと早くに痛みを取り除いてもらえば良かった」と書いていました。

叔父が肺がんの積極的な治療をすべて拒否していると、叔母から聞いた時に「治療を一切しないのなら、緩和ケアの外来や病棟がある病院に変わった方がいいのでは」と提案したのですが、叔母は夫ががんだというだけで頭がいっぱいで「緩和ケア」という言葉の響きを耳にしただけで拒絶反応が起きたようでした。 緩和ケア=不吉と思いこんで。 「まだそこまで悪くない」と気を悪くしたみたいだったから、説明したり、私が通っている病院にあった緩和ケアのパンフレットを渡したりもしたけど、聞く耳をもたない感じで。 きっと叔母は読まずに叔父の目に触れないうちにと慌てて捨てたんだろうな…。 自分の親だったら、もっとしつこく説得しただろうけど。

12.07スノードロップ

もしも、自分や家族にがんがみつかったら、なるべくたくさんの正確な情報に目を通してください。 告知された直後は混乱していてとてもその気になれないでしょうけれど、少し落ち着いたら、治療について考える段階になる前に一通りの知識を身につけておくことが現代の患者&家族には求められています。

インターネットにあふれる「これでがんが克服できる」とか「これさえ食べれば、がんが消える」とか「放置していれば、がんは自然に消える」といった根拠不詳の情報じゃなくて(今ちょうど、うさんくさい「まとめサイト」が話題になってますよね)、情報の発信元を確認して、ちゃんとお医者さんが監修した正しい情報を精査して読んでください。


叔父ももう少し早くからせめて緩和ケアだけでも受けていたら、寝たきりになるのを遅らせられたんじゃないかとも思えます。 でも、それはしょせん結果論。 叔父は苦しいのを隠して、ギリギリまで妻とあちこち旅行して大好きな山の風景を眺められたのだし、早めから緩和ケアを受けたとしても「こんなケアをしなかったら、もっとたくさんのことが自由にできたんじゃないか」と後悔したかもしれません。 「自分が決めた」ということで辛い現状でも納得ができるのだと思います。 叔父自身は放置していてももう少し長く元気にしていられて、いよいよダメになってからでも何らかの治療の選択肢は残されていると期待していましたが、残された選択肢はモルヒネによる緩和ケアだけ。 ものすごい葛藤があったのでしょうが、叔父も叔母も「自分が選んだことだから仕方ない」とあきらめがついたようです。 すべては自己選択、自己責任。 厳しい時代に生きているのですね、私たちは。

叔父は緩和ケアを受けたことでお医者さんが初めに宣告した余命よりも2ヶ月近く生き延びていて、今の救急病棟から他の病院のホスピスへの転院ができるほどに(!?)安定しています。 移送するのは絶対無理といわれていた状態だったのに、お医者さんにうながされて半月以上後の転院手続きを始めました。

最後まであきらめてはいけない。 けれど、痛みや苦しみはどうか我慢しないで。 がんの治療をするかしないかはその人の考え次第で、いいも悪いもありません。 でも、適切な緩和ケアを受けた方が生活の質が維持できるはずなので、緩和ケアを頭から否定しないで考えてみて欲しいです。


今年は柊(ヒイラギ)がひさしぶりにいっぱい咲いて、前を通ると甘い匂いが漂ってきます。 蜜蝋みたいな意外にも強い香りです。 顔を近づけてクンクンしようとすると葉っぱの先で鼻をチクッ(笑)。 結構痛い。 楠の木の下、いつのも場所に今年もスノードロップが咲いてうれしい。 去年は1輪しか咲かなかったから、数輪は咲きそうで母もニコニコ。


■たくさんの拍手をありがとうございます。 仕事の予定が二転三転して、最悪キャンセルの可能性もでてきてイライラしつつも、ぼちぼち元気にしています。

人の真価が問われる時

昨日は入院している叔父のリクエストでコーヒーとチョコレートを病室へ届けに行ってきました。 週末は状態が驚くほど安定していて、法事で京都へ来た東京の叔母や従妹たちがお見舞いに来てくれて上機嫌だったそうですが、昨日のお昼頃に容態が急激に悪化。 私が病院に着いた時には、病室にいろいろな測定器械が入って検査で慌ただしくなり、病室に泊まりこんで疲れ切っている叔母はパニックになって泣きだしてしまい…。

いろいろな検査をした結果は、すぐその場で担当医から本人に直接説明がありました。 肺の状態が非常に厳しいこと、酸素量はこれ以上増やせないこと、モルヒネにも限界があるので、これから耐えられない苦痛に襲われた時は意識が薄れる眠り薬しか選択肢がないこと。 意識が薄れてもいいから苦痛を取り除いて欲しいほど苦しくなったら、自分で担当医に伝えて欲しいということも。 表情はみえませんでしたが、叔父はとても冷静に受け答えしていました。 叔父は外来の医師とは相性がよくなかったようなのですが、病棟の若い担当医は大好きで全幅の信頼をおいているようなので、それだけでも本当によかった。

11.7枇杷の花

といっても、叔父は酸素マスク越しでも声がしっかり出て、多少苦しそうにしながらも普通に話ができていて、とても最末期とは思えません。 片肺への気道ががんで完全にふさがってしまい、そのために片肺がつぶれて非常に厳しい呼吸苦に陥っているはずなのに「泣くな!」と叔母を叱咤激励したり、泣き虫の叔母にしばらく付き添ってくれと私に頼んだり、叔母や娘婿と一緒に私も担当医からの説明を聞いておいてくれと頼んだり、娘婿に叔母のことを頼むと重いひと言を伝えたり。 終始、病人の方が付き添っている妻を心配している。

会いたい人には早めに会っておくようにとのことで、夕方に同居している従妹(叔父の娘)が子どもたちを連れてきたのと入れ替えに、水入らずで過ごしてもらうべく私は帰宅。 赤ちゃんの時から添い寝をしておしめを替えたりして、叔父が文字通り「溺愛」した中学生の男の子は病室に入るなり号泣してしまい、それを叔父が「大丈夫だよー」と苦しいのにニコニコしながら顔を上げて手を振ったりして。 私にも笑顔で「いろいろありがとうね」と手を握ってくれました。


病気が怖くて病院へ行くことを頑なに拒んでいた叔父でしたが、すぐそこに迫った最期を前にした今、思いがけないほど冷静で、家族になんとか心配をかけまいと気丈に振る舞っている姿に強く心打たれました。 できることなら、私も最期はこんな風でありたいと思ったけれど、その時になったらあんなにしっかりしている自信はありません。

叔父さん、柄にもなくカッコよすぎるよ…。


11.6夕陽の鉄路

日曜日は東京の叔父の三回忌の法要が京都であって、仲のよい従妹のHちゃんや叔母たちと本当にひさしぶりにゆっくり話ができました。 亡くなった人の遺徳が残された人たちの縁を結んでいてくれているのですね。 ありがとう、東京の叔父さん。 帰りはたまたま電車の先頭に乗ったら、逆光の中で鉄路だけが夕陽で輝いてとてもきれいでした。 鉄道と旅を愛した東京の叔父、そして仕事人として尊敬していた故Mさんのことを思いつつ、一枚写真を撮りました。



余命なんて誰にもわからない

10月半ば、突然呼吸苦に襲われて緊急入院した叔父。 主治医は「最悪の場合、1週間、あるいは月末までもつかどうか」、そんな厳しいことを叔母に告げたそうです。 本人は肺がんがみつかった時から主治医に対しては「何も知りたくない、治療で苦しみたくない、放っておいてくれ」というスタンスだったので、面と向かってはいわれていないようだったけれど。

母と私がお見舞いに行った時にたまたま主治医が病室に来て「ご本人のご希望にしたがって、これからは苦痛をなるべく感じないようにしていくことに力を注ぎます」というようなことを、叔父のベッドの横で私たちに向かって話されました。 ごくサラッと、ここでこれから行われるのは「治療」ではなく「緩和ケア」だけなのだと、この人は結構ハッキリ言っているのだなと主治医の無表情な顔を見ながら感じました。 治療を拒んできた叔父でしたが、呼吸苦に陥ってからは放射線治療でがんを少しは抑えられるのではないかと期待しているみたいに叔母経由で聞いていたので、叔父は主治医のその言葉だけで自分が思っている以上に状態が悪いのだと悟っただろうと思います。

医療者としては、後で責められないように本人と家族の意思をしっかり確認しておかないといけないのは当然のことなんでしょうけれど、なんとなく冷たい気がしました。 お医者さんとしては「こんなになってから、いまさら…」って感じなのかもしれません。 お医者さんが冷たいから叔父が治療を拒んだのか、叔父がかたくなだからお医者さんが冷たくなったのか、どちらが先だったのかは誰にもわかりません。 主治医との間に信頼関係がないまま、みてもらっている叔父。 そのことがとても悲しかった。


10.31野紺菊

でも、叔父は余命宣告より生き延びられています。

一昨日、叔父と電話で話をしました。 2泊3日の一時退院から病院に戻ったところだったようで、思っていたよりもずっとハッキリ機嫌良さそうに話してくれました。 入院した時は1週間くらいでどうかなりそうだと思ったけれど、来年の77歳の誕生日まで生きていられる気がしてきた、と。 これからの寒さ対策に寝袋を買えばリビングでもごろ寝できるかもとか、明るい声でまだあきらめていないと。 「当たり前よ、自分を信じなくちゃ。 結局は自分の生命力が大事なんだから」とかなんとか、そんなことを私は叔父に言ったんだったかな…。 何をどう言ってあげればいいのか、正解なんてないんでしょうね。 がんサバイバーとして、普通の人よりは死を意識していると思うけれど、病臥している叔父にかける言葉がみつかりません。

叔父は朗らかだけれど、実は人にとても気を遣うタイプ。 だから、心配させまいとよけいに朗らかにいろいろしゃべっているんじゃないかと思えて切なかった。 こんな調子で、個室に寝泊まりしている妻にも、留守宅を守っている娘一家にも、一生懸命明るく振る舞っているんだろうと、叔父がどんな顔をして笑っているかまで見えるようです。 叔父よりずっと若い、優しくて泣き虫の叔母が涙をこらえながら叔父に合わせて一生懸命朗らかにしている様子もありありと目に浮かびます。

余命宣告するときに、お医者さんは必ずかなり短めに言うと聞いたことがあります。 言っていたより早く亡くなると遺族から責められる恐れがあるし、言っていたより長く生きていると「先生のおかげで」と感謝してもらえるから。 結局わからないのに、なぜ余命宣告なんてするんでしょう?


10月後半は珍しく仕事がいい感じに忙しかったのですが、それも月末で終了。 仕事をしながらも、ずっと叔父のことを考えていました。 いつかは私の身にも、誰の身にも起こること。 私だったら、どうして欲しいだろう。

抗がん剤最終投与から丸2年 元気です

10月20日で抗がん剤治療の最終回から丸2年が経ちました。

抗がん剤治療を受けていたときはお先真っ暗、1年後の自分もイメージできなかったけれど、2年生き延びられました。 最近では東京オリンピックのことを聞いても、治療中のように「それまで生きていられるだろうか」とヒリヒリするような切実な感じは薄らいで、漠然とそのときも生きていることを前提に物事を考えている自分がいます。 そして、そんな自分に気づいて、ずいぶん病抜けしたものだと安心したりして。

10.15琵琶湖

人は誰も自分がいつまで生きているかはわからない。 それはがんに罹患した人も、いま現在自分は健康だと思っている人もまったく同じ。 ただ、健康だと思っている人は自分が死ぬことを具体的にはイメージしない。 「終活」なんていって、なんだか楽しそうにやっている人たちもそれは同じ。 がんだと宣告されると、「自分の死」が視界のすべてを覆うほど目の真ん前に突きつけられた気持ちになります。 その生々しい感覚は体験してみないとわからない。 「死ぬ気でがんばる」なんてことは、死ぬ気がしない人にしか言えない台詞。

治療中は目の前にずっとぶら下がって視界を遮っていた「自分の死」。 それが治療が終わると、時間の経過とともに少しずつ遠ざかっていきます。 意識の中から消えてはしまわないけれど、自分は健康だと思っていた頃のように「生きているのが当たり前」な感覚に近づいていくようです。 抗がん剤の辛さも、脱毛したときの悲しさも、死を意識してのヒリヒリするような切迫感も薄らいでいく。 生物としてそれが健全なんだと思います。

明日が来るかどうか、本当は誰にもわからないのだけれど、何の根拠もなく明日も今日と同じようにやってくると思えるようになった自分にホッとしています。

10.20キンモクセイ

去年の今頃は帯状疱疹になったり、その前からバセドウ病を発症していたり(たぶん)、まだ身体的にしんどかった。 バセドウ病とわかっていなかったから、異常なほどの倦怠感や激やせ、血液検査結果の異常な数値に「再発したのでは」と心底びびりましたが、不調の原因がはっきりして治療を受けて、今は本当に普通に元気になりました。

抗がん剤の副作用はほとんど何も残っていません。 脱毛した後に生えてきた髪の質が変わったとか、まつげが短くなったとか、足の爪の黒ずみがまだ一部残っているとか、足の甲が色素沈着して黒いままだとか、細かいことはあるけれどたいしたことではありません。 あえてあげるなら、点滴をした右腕の血管が今もまだ硬いことくらい。 といっても、重い荷物も平気で右腕でもてています。 バセドウ病になったのは抗がん剤の後遺症のようですけど(たぶんもともと甲状腺に多少問題ありの体質で、弱いところにしわ寄せが来たのだと勝手に思っています)、薬でコントロールできるものなので大丈夫。 自由に動き回れるだけでも本当にありがたいことです。

トリプルネガティブ乳がんの再発率が高い3年間を越えるまで、あと1年。 まずは3年生き延びるのが当面の目標です。

10.20白のホトトギス

自分が無事でホッとひと息つけたはずなのですが、半年前に肺がんがみつかったものの無治療を選択した叔父が間質性肺炎とがんのリンパ節転移で体調が急変し、叔母は非常に厳しい余命宣告を聞かされたそうです。 こんなに早く悪くなるなんて…。 お願いです、もう少し猶予をくださいと天に祈ることしか私にはできません。 無治療についてはいいたいことがいっぱいあるのだけれど、今は叔父の選択を否定したくないので何もいいません。 叔父と叔母にとって今晩が安らかでありますように。