人生の苦みを詩情豊かに ハ・ジン「待ち暮らし」

作家の名前も本の題名も知らないまま、図書館の本棚で出会ったハ・ジンの「待ち暮らし」。 「待ち暮らし」という言葉の響きにひかれて、何をそれほど待ってるのか?と手にとってみると、田舎の妻と離婚して若い看護婦の恋人と結婚したいと思っているものの、なかなか離婚できず、別居している妻を一方的に離縁することが認められる18年が経つのをひたすら待つ男というあらすじが本の裏に載っていました。 え~、そんな嫌なヤツの話なんて最悪!と思ったのに、それでもなぜだか読みたくなったのでした。 不思議なことに。 読み終わって、ああ、出会えて良かったとしみじみ思う本でした。

10.13待ち暮らし

著者のハ・ジンは中国出身。 アメリカ留学中に天安門事件が起こり、帰国を断念してアメリカで英語で小説を書くことを決意した作家だそうです。 この本で「全米図書賞」と「フォークナー賞」をダブル受賞し、アメリカで一躍注目の作家になったと、翻訳者のあとがきにありました。 大人になってから獲得した外国語で小説を書いているためなのか、とつとつとした語り口が中国大陸の田舎を舞台にした小説の雰囲気にとてもよく合っています。 華美で浮ついた言葉をいっさい排した、素朴で詩的な言葉が紡ぎだす物語世界は、ほとんど起伏のないものすごく地味な内容であるにもかかわらず、いままで読んだことのない味わいがありました。 前半のまどろっこしいほどの男のウジウジぶりに何度も睡魔に襲われましたが、それによって待って待ってひたすら時間が経つのを待っている感じを醸しだしているのだと、読了してから思い至りました。

主人公の軍医は教養のある心優しいヤサオトコ、いまの草食系男子そのもの。 不美人で時代遅れの纏足をした妻を恥じて、一緒に歩きたくないなどと思ってはいるけれど、別に嫌いなわけではない。 留守宅を女手ひとつで切り盛りして文句も言わないおとなしい妻を、恋人ができたからと捨ててしまうことに良心が痛むわけです。 読者は(たぶん誰でも)男にも妻にも愛人にも感情移入できないながらも、読んでみると誰にも腹が立たない。 最後に「本当にこれが自分の求めた人生だったのか」と後悔する、まことに立派なダメ男ぶりなんですが、それは誰でも一度は胸をよぎる「こんな人生のはずじゃなかった…」という思い、中年になって感じる人生の苦みに重なるものがあるんです。

そんな話なのに西洋的な絶望感いっぱいの読後感ではなくて、意外に重苦しい気持ちにはならないのは中国人の感性で書かれているから? 中国人作家の書いたものをほとんど読んでいないので(「ワイルド・スワン」しか読んでないかも)、これがハ・ジンの個性なのか、中国人特有のスケールの大きさなのかわかりませんが、こんな小説ならもっと読んでみたいと思いました。 「待ち暮らし」の時代背景は文化大革命なんですが、「ワイルド・スワン」とはまったく趣が違っていて、それも興味深かった。 「ワイルド・スワン」は文化人で迫害される立場の人だったけれど、「待ち暮らし」の方はあまり弾圧されない庶民の市井を描いていて、ほとんど波風は立ちません。 ひたすら個人的な苦悩に振り回される気の弱い男の人生なんて、とんでもなくつまんないんだけど、文学としてみごとに昇華されていました。 でも、あんまり若い人にはおすすめしません。 読んでも「しょーもな!」のひと言で終わると思われますので。

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