女性が内からみたイラン革命 アーザル・ナフィーシー「テヘランでロリータを読む」

昨夏、ナボコフの「ロリータ」を読んだのは、アーザル・ナフィーシー「テヘランでロリータを読む」の予習のつもりでした。 それなのに肝心の「テヘランで~」の方を読まないままになっていて、昨日やっと読み終わりました。 約500ページの長編です。 独特のこみいった文章と構成で読みにくくて、最初の100ページくらいはなかなか集中できず、思ったより時間がかかりました。

2.20テヘランで読む

この表紙の装丁のセンスと発売直後の評判、ネットでみたレビューにひかれて手にしました。 が、思ったよりも読みにくかったです。 もっと純粋なドキュメンタリーを想像していたのですが、ぜんぜん違いました。 この本は「ノンフィクション」としていいのかどうか…。 ノンフィクションを思わせる小説「ベルリン1919」とちょうど逆で、限りなく小説に近いノンフィクションです。 登場する人たちがイラン国内で迫害されないように、事実をはっきり書けないという制約もあったのでしょうが、それ以前に「語り」の感覚が欧米や現代日本とは違うんですね、たぶん。 「千夜一夜物語」の国ですからね。 どこへ連れて行かれるのかなあ…と思いながら、薄暗い森の中で著者の足跡をたどっているような感じでした。

第一部「ロリータ」は特に、女性である著者たちが革命後のイランでおかれた状況が把握できずイライラ。 第二部「ギャツビー」以降はイラン革命をほぼ時系列で追体験することになって、ようやく状況がわかりました(ワタシが鈍すぎ?)。 最後は、このうまいのかヘタなのかわからない独特の語りが、無味乾燥なドキュメンタリーとは違う情感を醸しだして心地よかったです。 アメリカに渡った後、思わせぶりな存在だった「私の魔術師」と、著者が想像の中で語らう場面と、イランの教え子たちの消息には、著者が自由と引き替えに失ってしまった祖国イランへの想いがにじんで、胸の奥がシンとしました。

よくわかっていなかったイラン革命のことが、少しだけわかりました。 てっきりイラン革命=イスラム(宗教)革命だと思っていたのですが、シャーを追放した後、アメリカ大使館占拠事件の頃は、左翼的な政治勢力と宗教勢力がせめぎ合って混乱状態だったんですねえ。 そして、ホメイニをはじめとする宗教家が国家を主導するようになってからの、女性への仕打ちはやはりヒドイです。 そういう点で、フェミニズムを論じている本でもあります。 ただし、この著者は非常に恵まれた立場の方なので、イランの一般大衆を代弁しているとはいえません。 また欧米文学批評に関する部分も、特殊な状況下にある女性として論じているところが多くて普遍性があるのかどうか…(授業で、ギャツビーを擬似裁判にかける部分はスリリングでよかったです)。 ある角度から見たイラン革命というところでしょうか。

全体としては「読書会」が中心なのではなく、イラン革命後の閉塞感の中で、禁止されている欧米文学を読むことの意義について、さらに広く「フィクションを読む意義」について書かれています。 ただ、個人的にはこの著者にわざわざ教えてもらわなくても「フィクションを読む意義」は知っていたので、一番著者が言いたかったことに新しい発見はありませんでした。


そして本筋とはまるで関係ないことなんですが…ワタシ、ずーーっとナボコフの名前を間違って覚えてました。 ウラジミールだと思いこんでいた(恥)。 以前の記事も「ウラジーミル・ナボコフ」に訂正しておきました。 今夜は穴に入ってます(笑)。

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